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2011年9月 私にとっての親鸞聖人 No,9


 親鸞聖人のご家族のことを今回たずねてみようと思います。

 聖人自身は自分のことをほとんど明らかにされていません。自分の誕生についても、著述に年時年令をおおむね書かれています。その年令から逆算して承安三年(一一七三)の生まれと確かめているのです。奥さんについても恵信尼という奥さんが居られたことは間違いないのですが、聖人自身は一言もふれられていません。聖人没後に出来た系図類を見ますと少なくとも七人のお子さんが確認できます。長男範意(遁世後・印信)師については、何も分からないのが実情です。お坊さんになられたことは間違いないのですが、母は九条兼実の娘と記されています。そうなりますと他の六人のご兄弟とは、腹違いということになり、聖人の奥さんも二人居られたことになります。他の史料では九条兼実には娘さんがいなかった事になっていますから、信憑性は薄いと思われます。

 善鸞さんについては、聖人と京都でご一緒に暮らして居られたようです。その頃、関東の門弟の間の教えに「異端」が発生し、その問題解決に聖人の名代として関東に赴かれます。ところが問題が終息するどころか、かえって惑わす結果となってしまいます。その原因が善鸞の誤った言動によるものであったことが分かり、建長八年六月、善鸞を勘当し親子の縁を切られます。老齢八十四歳でありました。どんな思いであったでしょうか。本願念佛の教えを正しく伝えてくれるものと托しておられたのに、善鸞自身の思いに振り回され教えを曲げてしまう、『法謗』の罪を正されたのであります。

 親鸞聖人は弘長二年(一二六二)十一月二十八日の御昼ごろお亡くなりになったと伝えられています。ご臨終の枕元には、末娘の覚信尼さんと、息子さんの益方さん。この方は越後に居られたのですが、急を聞いて駆け付けられたのでしょう。聖人の弟さんの尋有師の屋敷で伏せって居られました。葬儀は、覚信尼さんが取り仕切り行われました。お骨を三十日に拾い、東山鳥辺野の北の辺、大谷というところにこれを収められたと、ご伝鈔に見えています。

 その他の子供さん方については越後の恵信尼公の近くで、それぞれ生活されていたようです。 当時の庶民はいずれの方々もそうであったように、生活の不自由さは、ぬぐい隠せなかったようです。恵信尼公のお手紙からそのことがうかがえます。

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