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2011年7月 私にとっての親鸞聖人 No,8
親鸞聖人ご夫妻の人生と、現代の勤め人と比較すること自体おこがましく恐れ多いことです。が、聖人の三十五歳から六十歳の二十五年間はご夫妻揃って北陸、関東での現役地方勤務、その後、京都で人生の充実期として著述に専念せられます。当初、恵信尼公も自分の育った京都に帰られました。ところが何らかの理由で再び越後に戻られます。その理由が何であったのか今日のところ納得できるものが見当たりません。夫婦は一緒に居らねばならないという現代感覚も問題かもしれませんが、家族揃って(最低四・五人)京都に帰られ、生活が成り立たなかったのではないだろうか?と、想像するのです。京を離れられて二十七年、お身内の世代交代も始まっているし、あまり援助も頼れません。今日とは八百年の隔たりがあるとしても、人間生きるための手立てはあまり変わらないのではと思います。越後には、恵信尼公には実家の三善家から譲られた領地を持っておられ、それらの管理にもその土地に居る方が好都合であったでしょう。
親鸞聖人ご夫妻はお二人揃って大変ご長命なお方でした。当時の平均寿命はどれくらいかわかりませんが四十半ばぐらいでないでしょうか。そんな時代に親鸞聖人は九十歳。奥さんの恵信尼公は八十七歳でお亡くなりになりました。今日で云う痴呆症のようなこともなく、頭脳明晰であったことは間違いありません。そのことは今日残っているお手紙からもうかがえます。
聖人最後のお手紙は(推定)、お亡くなりになります二週間前の十一月十二日付けのものが残されています。内容は、露命わずかと感じられたのか、常陸(ひだち)の人々に「いまごぜんのはゝ」と「そくしょうぼう」のお二人のやしない扶持を依頼されています。この方々のことが気掛かりだったのでしょう。そのお気持ちが文面から感じられます。私たちとちっとも変わらない凡夫の姿です。また聖人は弘長二年十一月二十八日にお亡くなりになりますが、その一週間前から体調を崩され伏せられます。間際までお元気であったことがうかがわれます。
恵信尼公のお手紙は十通残されています。七十五歳のものから八十七歳までです。それから察しますに、越後での生活は、あまり楽ではなかったようです。不作続きで困っていることや下人たちに逃げられたり、体調を崩したりした事がうかがえます。孫さんたちの繕いでもなさるのでしょう。針を少し送って欲しいと依頼されたりもして生活の匂いがします。
文永五年(一二六八)三月十二日付け以降のお手紙は残っていません。このお手紙が最後なのかもしれません。八十七歳になられているのですから。通信手段は今とは比べものになりませんが、私の周囲の老人たちを眺めましても、手紙を書かれる方は少ないように思います。電話で済ます方が楽ですし、手紙は手間が掛かります。それにしても恵信尼公の教養はたいしたものです。これだけの教養を身に付けられているということは高貴な出身なのでしょう。
当時、読み書きの出来た人といえば男性でも、ほんの一握り、まして女性であり、八十七歳という高齢になっても書面をしたためられているのです。真宗聖典の二頁分、字数で約千五百字の長文です。十通目に『夜の暗い中で書いているものだからさぞ読みづらい事でしょう』という文言があります。月明かりで書かれたのでしょうか?何かの事情で急いでしたためられています。当時の通信事情は分かりません。今の宅配便のようなことでなかったかと思います。京都への便も何時も出るわけでないから、その数少ない便に間に合わすために、急がれているのではないかと想像します。それにしても生活力旺盛な女性です。
恵信尼公のお亡くなりになったのは何時か分かりません。十通目のお手紙が最後でこの年(文永五年)にお亡くなりになられたのではと推測されています。冒頭の部分に寅年生まれだから八十七歳なのか、八十八歳か分からなくなった。と云うようなこと、今年は特に体調がすぐれないといった、気弱なことが書かれています。こういった事から推定されるのでしょう。
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真宗大谷派(東本願寺)茨木別院
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