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2011年3月 私にとっての親鸞聖人 No,6


学問の日進月歩はすばらしく、私の習った親鸞聖人像と今日とでは雲泥の開きがある。当時の学説を鵜呑みに聞いていた私、今になって何を習っておったのかと云ったところでしかたなし。だが皮肉なもので、そのことが身につき肉になっているのが馴染みやすく、そこから抜け出せないのも困ったものである。
 違いが二点あって、第一点は親鸞聖人の結婚時について、二点目は、『親鸞』との名のりが何時だったのか?である。
 まず結婚についてであるが、法然上人の吉水教団におられた時は清僧で、流罪となり越後の地で恵信尼公と所帯を持たれたと教わっていた。それが定説となっていた。

 高校時分に読んだ吉川英治の『親鸞』という小説に、「玉姫」という女性と結婚し御所車に乗って京の街を通行中に石を投げ込まれる様子が描写されている。これらは小説家のフィクションであって、そんなことがあろうはずがないと、一蹴されたものである。ところがである、聖人の子供の数と年令を考えると、京都吉水時代にも妻がおられた、と云うことでないと話が不自然なのである。そういった事から当時は、妻二人説も通説であった。そのような講義を受けていたのであるが、何かしっくり来ないものを感じつつ学んだ覚えがある。奥さんが二人おられようが、一人であろうがかまわないのだが、二人となれば何方なんだろうかと興味もわくし、子供さん達のお母さんはどちらなんだろうかと、関心もわくことである。

 今は、京都で結婚されていたことが紛れもない史実となっている。妻としての存在は恵信尼公ひとりである。九条兼実の娘「玉姫」なる通説の人物はおられなかったようである。妻恵信尼公は京都の貴族三善為則の娘で京都で結婚されたという説を、明快に発表されているのは、筑波大学の名誉教授の今井雅晴先生で、何となく宗門(西本願寺も含めて)内の学説でないのが淋しい。さりとて今井説をくつがえす史料もなく、判断を慎重にされている先生もおられるが、定説となりつつある。

 京都での結婚となると、作家吉川英治の小説『親鸞』のフィクションもまんざらでもないことになる。二人揃って輿車に乗って云々はともかくとして、お二人が何時どこで出会われたのかは、想像の域でしかないが中には吉水の法然上人の元へも一緒に通われたのではないか、という意見もある。現代青年の姿ではあるまいし、私には何か頂けないものがある。聖人は『生死いずべき道』を求められた真面目な求道者である。真剣に法然上人の元に通うのに二人して行くとは、なにか破廉恥な姿と思うのだが、古いのであろうか。当時の時代背景を八百年後の今日の情況で考えるのは飛躍しすぎではないかと考える。  だがしかし、吉水時代には『僧綽空』と名告られているのも事実である。『僧』と記されているかぎり清僧であろう。清僧のままで結婚されたのであろうか。だとすると、京の街では噂になったであろうと、想像する。

 当時、内緒で女性を娶っていた僧侶は多くいたらしい。比叡山の東のふもとに坂本という町があるが、僧侶の隠れ家であったという。結婚を公にされたのは親鸞聖人が初めてであって、『破戒僧』の汚名を着せられ、承元の法難に連座される大きな理由の一つであったのではと思われる。

 一昨年には津本陽氏、昨年は五木寛之氏らが宗祖七百五十回忌を見すえて、親鸞の小説をそれぞれ出版された。津本氏の『無量の光』は親鸞聖人の生涯上下二巻。五木氏の『親鸞』は新聞小説として一年間発表されたものである。

 津本氏の作品は、聖人の数多くの著述を克明に読み破り、それらをわかりやすく解説くださっている。小説というよりも聖人を識るうえでの解説書といった面のある力作である。氏には、以前にも『弥陀の橋は』という小説を読売新開に発表されている。

 五木氏のこの度の『親鸞』は、七十万部も求められたというベストセラー。さすが流行作家だけに親鸞の名を轟かせてくださった。作家としての想像たくましく話が展開されていて、聖人を身近に感じさせて下さった。


(『親鸞』の名のりは次号に)
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