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2010年9月 私にとっての親鸞聖人 No,4


 親鸞聖人は聖徳太子を『和国の教主』日本のお釈迦様と尊称されたことは先にも述べました。ですから四天王寺、法隆寺、磯長の御廟(叡福寺)へも参詣されました。法隆寺内円明院では六十日間、学僧覚運僧都について因明(いんみょう)を学ばれました。その事を記した説明板が以前は建てられていたのですが今はありません。この学びの時、聖人が用いられていた麻で作った袈裟が残っていて、大阪市立天王寺美術館での法隆寺に出品され、学生の頃、見る機会を得た思い出があります。また親鸞聖人の幼名「範宴」作と刻まれた太子孝養像が法隆寺にあり、これも出品されていました。法隆寺は昔、念仏堂もあり浄土信仰や親鸞聖人の若い頃の伝承に興味のわくことであります。

 法隆寺の正式名称は『法隆学問寺』です。仏法を隆盛ならしめんとの太子の願いから学問寺として建立されたと云われています。法隆寺は既に太子の頃より学問(教学)が盛んで、今日も三経院(西室)京都の三十三間堂を小さくしたようなお堂で、三ヶ月間百日説法(夏安居/げあんこ)が五月から七月にかけて開催されています。これは太子の『三経義疏』の講義以来の伝統が受け継がれています。また夏期佛教講習会も開催され、昭和三十四・五年頃の最終日、曾我量深先生が『親鸞聖人』と題して講演されました。聴講しましたが、サッパリわかりませんでした。その席に富貴原章信先生がおられました。当時先生は谷大の教授で唯識の先生でした。先生は法隆寺管長佐伯定胤師のもとで長年唯識を学ばれ、授業中、法隆寺での学びについてよく話されました。
法隆寺の学問は、畳説法と云って聴く者が誰も居なくても畳の目が聴衆として講義されるのだと、教えてくださいました。なにか含畜のある話で記憶にあります。

 余談になりますが、宗門内ではすでに忘却の彼方、ご存知の方々は殆ど亡くなられ、先輩から聞かされた者として、後に伝えるのも大事なことかと書かせていただきます。

 法隆寺と我が真宗大谷派とはどういう関係なのか分かりません。明治の廃仏毀釈の嵐のため法隆寺も荒れ果て、一時期大谷派が管理?していたとのことであります。当時は、奈良興福寺の五重塔が五十円で売りに出され、買われた方が興福寺にその塔を寄付されたという、嘘のような本当の話がまかり通った時代です。ですから大和の生駒、二上、葛城地方の門徒衆が薪やら食べ物持参で法隆寺へ出かけお説教を聴聞しました。その後、文化財としての価値が国の方で重んじられるようになり、門徒衆が世界的文化財のお堂や仏像の前で煮炊きしたりするのは禁止、寺内から追い出されました。そこで二・三百メートル西に道場を設け「斑鳩の説教場」と名乗るようになりました。戦前は両度のご命日や、法隆寺の会式の折には賑わったのですが、戦争で疎開者が移り住むようになり管理がうまくいかなくなり今日に至りました。説教場は今もあり、二百坪程の土地に集会所の建物があります。現在、土地は宗門の所有で、建物は所在地の町内の物置のような状態になっています。ご本尊は、御影の一貫代でした。「斑鳩説教場」の由来は説教場の石碑に刻まれています。拓本でも取って後世に伝えたいものです。

 宗祖七百五十回ご遠忌をご縁に意識を喚起し、地域の方々が今日まで管理下さっているのですから、話し合って本来の方向に持っていきたいものです。
 また先日、世界最古の木材として報道された奈良の元興寺極楽坊に真宗大谷派の奈良教務所が置かれていました。どういう経緯でそうなったのかわかりませんが、明治の廃仏毀釈がそうさせたのでしょう。明治から大正年間まで置かれていました。奈良県内の大谷派の寺院を訪ねますと、床の間などに素彫りの素材なお地蔵さんを見受けます。あれらは元興寺の長押に祀られていた千体佛で、鎌倉時代の作品です。教務所に行かれたついでに、おみやげに持ち帰られたのでしょうか?

 昨今宗門で見直されています、幸徳秋水らの大逆事件に連座した高木顕明師の事績を調査し本山に報告したのは、奈良教務所藤林録事でした。奈良教務所の統轄範囲は奈良県、和歌山県、京都山城地区、三重伊賀地区です。奈良教区が教化事業の一環として女子への和裁学校の運営に乗り出しましたが、運営に失敗、借財を抱えその為、今日の教区編成になったと聞いています。
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